城下町唐津

文禄二年(1593)唐津藩初代藩主となった寺沢志摩守広高は、慶長七年(1601)から六年の歳月をかけて唐津城を築いた。
また築城と同時に城下町の町割にも着手した。

「松浦拾風土記」に
一、町数、壱万石壱町宛にして拾弐町と極ル、此町割並惣行事廻
一、刀町・米屋町・呉服町・魚屋町・本町・大石町・紺屋町・中町・木綿町・材木町・京町・八百屋町とある。

藩政中期には町田川を境として、左岸に総町として内町
(本町・呉服町・中町・木綿町・京町・刀町・米屋町・紺屋町・平野町・新町・八百屋町)外町(材木町・大石町・塩屋町・東裏町・魚屋町)をおき、それに組続きの町として江川町を加えて唐津十七町と称した。
広高は農村では宅地にまで税をかけていたが、城下町の発展のため町割内の町人や職人には免除され、経済活動が保護された。
こうして港にも恵まれた唐津の町は、しだいに商業がさかんになり、江戸時代中期には商人や職人の町人文化が栄え、やがて豪勢な[からつくんち]というお祭りを生み出すことになる。

呉服町のはじまり

唐津城大手門と相対し、唐津城築城時の町割でできた。
呉服屋が軒を連ねるようにと名付けたという。
城下町にとって最も重要な位置を占め、藩政期中頃からの筆頭大町年寄の石崎氏も呉服町に居住していた。

文化年中記録に
古来本軒三十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百五十八人、引合五人組五十三人、内町年寄苗字帯刀御免一人、組頭一人、御肴屋一人、御用船問屋、酒屋四軒、糀屋一軒、薬屋一軒、質屋、寺安楽寺とある。
以来、唐津において商業の中心地として発展してきた。

近代

明治35年には佐賀~唐津間の鉄道が開通し、唐津駅前の商店街としてますますの発展をとげた。
昭和七年、町から市になった唐津市では、その頃から、観光都市をめざして努力をはじめ、たくさんの観光客が唐津を訪れるようになった。
昭和39年にはアーケード工事が行われ、天候に関係なく楽しくお買い物ができる現在の呉服町の姿となった。